研究者の父を見て育つ
私の実家は長崎市船大工町にあります。
長崎新地中華街の近くです。ここは江戸末期から明治時代にかけて、西洋雑貨店やパン屋さんなどが並ぶ、大変おしゃれな街並みでした。
片峰家の祖先は、江戸末期、大分から長崎へ出て薬屋を創業しました。1865年のことです。片峰薬局の漢方薬「人壽湯」は、明治から昭和初期にかけて、遠くは関西地方まで販売していたのですよ。この薬は今も長崎県内の薬局で取り扱っています。
150年近く続く老舗薬局ですが、父はそれを継がず、医学の道に進み研究者となりました。長崎大学の風土病研究所(現在は熱帯医学研究所)で働いていたんです。アフリカやアジア、離島などへ出向いて研究をしますので、長い間家を空けることも珍くありませんでしたね。ですが、子どもの頃の私は、それを寂しいとは思いませんでした。それどころか、研究職とは、父がそれほどまでに夢中になれる面白い仕事なのかとさえ思っていました。後に私も同じ道を選ぶことになるのですが、当時の父の姿に影響を受けたことは確かです。
「長崎を出たい!」県外の高校を受験する 私は一人っ子で「過保護」に育てられているな」と感じており、その反動から「長崎を出たい!」と常々思っていました。中学生時代、とても仲の良かった友人が県外の高校を受験するというので、3年生に入って猛勉強を始めました。彼の成績が見る間に上がっていくのを見て、私も挑戦してみようと思ったんです。受験に備え、全国の高校の過去の入試問題が載っている参考書を買ってきて解きました。そして進学したのがラ・サール高等学校です。念願の県外へ の脱出でした(笑)。
過去問を解いて感じたことは、東京の高校入試の問題が非常に難しかったということです。東京の進学校の授業は、地方の中学校と比べて、かなり進んでいたのです。志望校の入試問題よりもレベルの高い過去問題を解いたことが、受験成功のカギだったのではないでしょうか。高校時代の勉強でも印象に残っていることがあります。数学の学外模試を受けた時、非常に難しい問題が出題されました。これは計算に手間がかかるなと思ったのですが、ふとベクトルを使ってあっという間に解く方法をひらめいたんです。この方法で解いたのは全国で私ただ一人。模範解答としても紹介されました。あの時は大変気分が良かったです(笑)。数学は特に好きな教科でした。自分で考えて答えを導き出せた時の感動は、暗 記教科にはない魅力だと思います。
授業に追われた高校時代
高校時代、最初の2年間は寮で過ごしました。寮生活はとても楽しかったですよ。常に誰かと一緒に過ごしていましたので、寂しいと思うことはありませんでした。規則正しく生活できたこともよかったですね。寮は夜の11時に消灯するので、夜の9時に点呼を終えた後の2時間を勉強にあてていました。毎日しっかり2時間、集中して学習できる時間を確保したことは、とてもよかったと思います。
ただし、成績は思ったようには伸びませんでした。どんなに勉強しても勝てない、大変優秀な同級生が何人かいたことも大きかったですね。特に、常にトップクラスで成績を維持じしていた加藤君はすごかったですね。彼は授業中に鉛筆を持たないんです。ただ授業を聞いているだけ。参考書もめくって読むだけで、すべて頭に入っていました。彼には敵わないと思いましたね。どうしても越えられない厚い壁を感じていて、大変悔しい思いをしたのを覚えています。彼らを追い抜くどころか、高校のカリキュラムですら、ついていくだけで精一杯でした。特に、高校3年生になって英語と国語、数学の3教科を中心に行われた「週テスト」には苦労しました。毎週テストが行われていたんです。出題は1教科ずつですが、受験を意識して出題される難しい問題ばかり並んでいました。当時は補習がまったくなかったとはいえ、学習進度も早 かったので、週テスト対策は本当に大変でした。
考え、行動する学生を育てる
先ほど、父の影響で研究者になったと言いましたが、医学の道に進もうとは初めは思っていませんでした。関東か関西にある国立の理工系学部を受験しようと思っていたんです。ところが、高校3年生の1月に東大安田講堂事件(*)が起き、東京大学の入試が突然中止になってしまいました。他にもいろんな事情が重なって、長崎大学の医学部へ入学することになります。その後も、医師国家試験の受験を決意するまでは、医師の道に進むことに戸惑い続け、何度も何度も悩みました。
大学入学後は、学生運動の真っただ中で、授業どころではなかったです。私たち学生は、自ら討論会や勉強会を立ち上げ、文献を読み、社会への疑問や不満について話し合いました。このような社会環境であったので、当時の学生には、幅広い知識や一般教養などを学ぶ「リベラルアーツ」の部分は欠けていましたが、与えられた情報や価値観を受け取るままではなく、自ら考え行動を起こす「ジェネリックスキル」は身についていたのではないでしょうか。
最近の学生は受け身だと言われますが、これには彼らを取り巻く環境にも一因があると思っています。私が大学生だった頃は、学生が自主的に考え行動するための仕掛けが社会にありました。現代の学生たちの間に、自分たちの中から問題意識を持ち、行動を起こし、何かをつくり上げていく熱気が起こり、それが大学側にどんどん伝わってくるようなキャンパスとなるためには、仕掛けづくりが必要だと思っています。学生の本質は、今も昔もあまり変わらないと思いますよ。
* 東大安田講堂事件…1969年1月18日、19日に起こった事件。学生が組織する全学共闘会議(全共闘)などが、東京大学本郷キャンパス安田講堂に立てこもり占拠したため、警視庁が大学からの要請で封鎖解除
を行った。
恩師のもとで学んだ研究者としての基礎
大学卒業後は内科を選択し、長崎大学病 院での1年間の研修の後に東京の都立病院に勤務しました。しかし、すぐに自分は医者に向いていないと実感します。研究の道へ進みたいと各地の大学院を訪ね歩く中で、東北大学大学院の石田名香雄教授と出会ったのです。石田先生は、日本のウイルス学の創始者ともいえる人で、研究室は全国に知られていました。それだけでも十分に魅力がありましたが、先生の気さくな人柄にも惹かれました。こうして、東北大学で研究者としてスタートしたわけです。
私は、石田先生から直接何かを教わったことはありません。「自由にやらせる」というのが石田流の人の育て方でした。研究室にはあらゆる分野の優秀な専門家がいて、研究環境も整っていましたので、自分で考えて研究を進め、わからないことがあれば周りに相談して解決しました。これが結果的に、研究者としての基礎の力をつけることになったと思います。
大学院を修了した時も長崎へ帰るつもりはなく、就職先も決まっていました。しかし、家庭の事情があり、またタイミング良く長崎大学からの誘いもあって、結局は長崎に帰ることになったんです(笑)。最初は水産学部の練習船の船医となり、その後は病院勤務をしましたが、やはり医者は向いていないと思いましたね。その直後、長崎 大学の細菌医学教室の教員に空きができて、研究者へ戻ることができました。
長崎からの逃亡には失敗しましたが(笑)、 研究者としての私は、幸運に恵まれていたと思います。興味深い研究素材が常に目の前にあり、最前線の研究に関わることができました。世界で初めての発見など、非常に感動的な体験もしました。苦労することも多かったですが、だからこそ研究に熱心でいられたのかもしれません。
想像力と創造力を育てよう
皆さんは、よく学び、よく遊んでいますか? 勉強も必要ですが、それ以外の分野にも興味関心を持つことは、とても大切だと思います。テレビゲームなどではなく、どんどん外に出て五感を使って遊んでほしいですね。皆さんに必要なのは、想像(イマジネーション)力を育て、創造(クリエイション)力につなげていくことです。そのためには、頭で考えるだけではなく、見たり聞いたり触ったりして、感動体験をし、その体験にイメージを重ねます。もっともわかりやすい具体例は、本を読んで文章を書くことです。本を読んで感じたことを頭で練り直し、自分の言葉で文章にすることは、まさに想像と創造の作業ですね。他にも、絵画を鑑賞する時、音楽を聞く時、料理を食べる時、しっかり感じ、そして考えてください。想像と創造のプロセスをぜひ楽しんでほしいと思います。
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